
水族館初の繁殖という快挙を背負った小さなカニがバックヤードにいる。500円玉ほどの甲羅から細長い足が10本伸びており、フィギュアのようだが、れっきとした“松葉がに”である。松葉がにというのはズワイガニのオスの呼称で、冬の日本海を代表する水産資源のひとつ。大切な資源を守るため漁獲可能サイズの取り決めがあり、城崎マリンワールドから最も近い津居山港では10.5cmと定められている。ここまで成長するのに10年かかるとされ、水族館での繁殖・育成は誰も成功していない。
「どのように成長していくのか見てみたい」きっかけは素朴な好奇心だった。2017年9月、私たちは地域の強みを活かせる「カニプロジェクト」として、来園者と共にカニの成長を見守る展示を始めた。無事に10年間育てることができたとき、飼育技術もレベルアップしているはずだ。
1匹のズワイガニが1回に産む卵は5万粒。ふ化したときにはカニの形はしておらず、プレゾエア幼生、ゾエア幼生、メガロパ幼生という段階を経て、やっと甲幅5mmほどの稚ガニになる。そこから何回も脱皮を繰り返して大きくなるのだが、途中で力尽きる個体もあり、無事に大人になる確率は0.000……1%。限りなく不可能に近いチャレンジとなる。
困難なプロジェクトは、飼育魂に火をつけた。メンバーは甲殻類を得意とするエキスパート揃い。カニやエビの話となると頬を緩めて「この子たち」と愛情をこめて呼ぶ清水亜朱沙は、2007年頃からアカシマモエビやヤドカリの飼育チームとしてJAZA(日本動物園水族館協会)の繁殖賞を何度も受賞している。
水産試験場等では採算が合わないためか養殖には至っていないようだが、種苗生産の技術開発は以前から行われていたこともあり、隣町の但馬栽培センターを視察した。並行して参考になる文献が無いか広く調査。歴代の飼育員が積み重ねてきた経験を礎に、新しい情報を組み合わせることで、初年度から約600匹の稚ガニの繁殖に成功した。
順調な滑り出しに思えたのも束の間、稚ガニはなかなか成長せず、共食いや脱皮の失敗などが続き、すべての個体が死亡してしまった。無事に大きく育てるにはどうすればよいのか……。試行錯誤が続いた。
まず、取り組んだのは共食いの防止。プラスチックケースで個室を作り、小さなカニを1匹ずつ分けて育てることに。バックヤードに出現したカニのアパートを一部屋ずつ掃除することになった。前例の無い取り組みというと高価な最新機器を駆使していると思われるかもしれないが、虫かごや割りばし、タオルといった生活用品が意外に役立つ。
12月から3月にかけては、その年に生まれた幼生を集める作業も加わる。展示水槽で生まれてバックヤードの濾過槽に流れてきたタイミングで、傷つけないようケースで水ごとすくわなければならない。幼生の間は掃除のために別の水槽へ移動させるのにもスポイトを使った細かな作業が必要となる。
生存率は高まったものの、今度はなかなか成長しない課題が浮かび上がり、水温についても見直すことに。他の甲殻類の飼育経験から高めの水温の方が早く成長すると考えていたのだが、ズワイガニの場合は脱皮間隔が短くなってしまうだけで大きくならないことが分かった。成長段階によって海底、低水温のエリアへ移動する生態に合わせ、水温を大幅に下げて稚ガニの飼育を試みた。
地道な作業を毎日繰り返すこと7年。2024年の秋、命がけの脱皮を終えた1匹のカニが、甲幅3.5cmとなっていた。
「本当にかわいくって、古い甲羅はアクリルのキューブで保管しています。目標を達成したとしても興味は尽きないんじゃないかな。大人になるまで本当に10年かかるのか。条件が変われば早まることもあるのか。自然界より高めの温度で育ったこの子たちは、高水温に強いんじゃないのか……」(清水)
10.5cmまでの道のりさえ半ばだが、飼育員たちはプロジェクトで育てたカニが卵を産む「累代飼育」にもチャレンジしたいと、もっと先の未来を見据えている。